ひとくち伝言     平成10年12月(96号)





 本堂の前に立つ、芯のすっぽりと抜けたあの大銀杏は、昭和二十年五月の空襲の生き証人であることが地元の広報誌に取り上げられ、次いで毎日新聞の東京板に写真入りで紹介されたことがありました。それから間もなく、ある初老の男性が訪ねて来て、その銀杏はどこかと尋ねるので、居合わせた家内が「この木なんですよ。」と教えました。すると、その人は銀杏のまえに直立し、感極まった様子でこう言いました。
 「ああ、ここですか、原爆が落ちたのは…」
そして、両手を合わせ、熱心に拝んだかと思うと、あっけにとられた家内を後にして、さっさと自転車で帰っていってしまったとのことでした。
 あとで伝え聞いた私は、これは傑作な話だと思いました。そのオジサンの言い残した言葉が指し示す事がらに、私はひとしきり興奮しました。
「こりゃ大変だ、東京にも原爆が落ちていたという訳だ。いやー、大スクープ、誰も知らないだろうね。この木はさしずめ『原爆銀杏』だね」
などと面白がり、不謹慎にも、しばしばこれを話題にしておりました。
 しかし最近、私は「ちょっと待てよ」と思うようになりました。たとえ落ちたのが焼夷弾であろうと、原爆であろうと、大した違いは、もちろんありますが…、その人が新聞記事を読み、わざわざ自転車でやって来る労を取らせたのは何だったのか、そのことを見落としていたような気がしたのです。まちがいなくその人には、合掌して、深々と一礼せずにはおれない思いがあったのです。その人が五十年という歳月の彼方に向かって拝みたかったところの、多分、戦災で犠牲になった命についての思いの前には、原爆だろうが空襲だろうが、大きな違いはなかったのでありましょう。そのことを見落とすと、あの一件はとんだ笑い話になってしまうのです。
数年後の今、会ったこともないその人の心をより深く理解したなどとは思いませんが、私の中で、あの一件は微妙に色合いが変わってきています。
 こんな言葉がありました。「理解したことも誤解の一部だと心得れば、相手を責めることは少ない。」(「伝えることば」全国浄土宗青年会編)私たちが理解したと思っていることは、まず、誤解であります。さらに、「今まで誤解していた。これが本当なんだ。」と思う時でさえ、やはり新たな誤解を得たにすぎないと思えということなのです。大切なのは、前の誤解から次の誤解へ移る道のりなのかも知れません。特に歴史について考える時、歴史を裁くという過ちだけはしたくないものだと思います。

(榮)












   ひとくち伝言板   

[ 郵便番号は 165-0025 ]

Emailアドレス;kusano@m28.ctn.ne.jp
ホームページ;http://evam.com/meijidera/index.html


平成10年12月の行事ご案内

12月6日(日)  午前9時より  写経の会
(写経の後、慣例により一足早い年越しそばをいただきます)
12月17日(木) 午後1時より  百観音法要 =納めの観音供=
12月9・23日(水) 午後6時半より  坐禅の会
(この一年をふりかえり、静かに坐ります)

*明年1月の写経の会は10日になります。
*地域により暮れの内に「行事案内、節分ご案内」等が届く所がありますので、ご了承ください。

12月11日(金) 午後1時より 成道会のつどい(東京仏教会主催)
会場:九段会館大ホール(地下鉄東西線・都営新宿線「九段下」)
入場料:1000円(当日券有)問合せ先:3491-2571徳蔵寺(事務局)

プログラム
1:00成道会式典
1:30林亮勝師(大正大学学長・歴史家)講演「ゆめのまたゆめ」―秀吉と家康―
2:40叡山流ご詠歌舞 出演:天台宗叡山講詠舞の会
3:20「須磨琴」演奏 出演:須磨琴保存会(〜4:00)
ご詠歌舞は、ご詠歌に合わせて舞う清らかな舞踊です。/須磨琴は、在原業平が作ったという一弦琴です。神戸の須磨寺に伝わるものだそうですがこれもちょっと珍しい楽器です。どんな音がするのでしょうか。




今月の切手代感謝録/関口玲子様、城ヶ崎京子様、清水正司様、吉沢和枝様、杉浦暁美様、魚田順子様、ありがとうございました。

「御法会」についてお尋ねを受けました。百観音の境内清掃や、堂塔の維持管理の費用は、ご信徒の方々からの維持会費収入などによって支えられています。その会のことを「御法会」といいます。(多宝塔のご縁でつながっている方は、慈音会費の中に御法会費も含まれております。)
 寺の維続は、広く、薄く、大勢の方のお気持ちによって支えられていくべきだという趣旨から、会費は一口年額6000円となっています。いわゆる「檀家になる」ということではありませんので、柔軟にお考えいただければと思います。これに関しては「百観音御法会ご入会のおすすめ」というご案内をご請求いただければありがたく存じます。

来年は、西暦1999年になりますね。9が並ぶといよいよ「ドン詰まり」の感を深くします。歳末気分ならぬ「世紀末気分」が、あちこちに漂っているような気がしないでもありません。しかし考えてみれば、西暦というのはグレゴリオ歴のことで、キリスト教の年間行事に合うように作ってあります。クリスマスの一週間後に一年の始まりがあるのは、そのためなのだそうです。
 ちなみに仏教では、仏紀という年号を使います。来年は仏紀2564年、つまり26世紀のまん真ん中であります。平成の年号ならば若々しい11年です。余り世紀末という漠とした空気に囚われずに、一人ひとりの心と言葉を見つめて暮らしたいと思います。
 この一年のおかげ様を感謝いたします。どうぞ、心穏やかな師走でありますように、そしてよい新年をお迎えください。 合掌