ひとくち伝言 平成17年11月

 先日、痛い目に遭いました。といっても、ただ親知らずを抜いただけの話なのですが…。

 この親知らずというのは、在れば在ったで痛い、抜けば抜いたでまた痛いという厄介なもので、「一緒に育ってきた仲なのにひどいじゃないの!」と、不満をぶつけたくなります。なにより困ったのが、抜いた後の腫れでした。

 抜かれた歯を見た時は、「おまえには大分悩まされたけれど、これでお別れか…。」と、一抹の寂しさも感じたのですが、それもすぐに吹っ飛ぶほどの腫れっぷりでした。

 なにしろ食事は出来ず、しゃべることもままならない。お経をあげても「ぶっひぇひゅまーひゃーはんひゃーはーりゃーひーたーひーんひょー(仏説摩訶般若波羅蜜多心経)」では、仏さんもお経とは気づかないのではないかと、いらぬ心配までしてしまう始末です。

 ところが、抜歯した次の日に、経過を診てもらうために歯医者に行った時、先生にこんな事を言われました。

「歯を抜いた後はそれを補うために血が集まりますから、どうしても腫れちゃうんですよ。まぁ、体も頑張ってるので我慢してくださいね。」

 これを聞いて、単純な私は「なるほど、では仕方無いな」と納得してしまったのですが、思えば不思議なもので、この頬が私の意志に反して勝手に腫れている(妙な言い方ですが)と思うと、痛みや腫れが憎らしくなってきます。自分の体の痛みにもかかわらず、自分の外から与えられている痛みのような気がしてしまうんですね。

 しかし、この腫れも当然のことながら私の一部で、一緒に頑張っている。そう思うと、腫れの苦しみも、まるで共同戦線を張っている仲間のように思えてきました。痛みや腫れが無くなったわけではありませんが、イライラする事は無くなり、大変助かりました。


 ふと、榮應和上が生前に「もう病気と上手く付き合っていくしかないなぁ」と、少し笑いながら仰っていたのを思い出しました。苦しみというものは、それから逃れようと思うと、かえって大きく、強くなるものです。誰か嫌いな人を「嫌だ嫌だ」と思っていると、ますます嫌いになるのと同じですね。痛みや病気自体が苦しみなのではなくて、その受け止め方が苦しみを生んでいるんだよ、と教えられたような気がします。

 苦しみを無くそうとするのではなく、苦しみも自分の一部として受け止める事が出来た時、自然と苦しみは苦しみではなくなるのかも知れません。

 なにはともあれ、こうしてひとくち伝言のネタになってくれましたので、親知らずの痛みもそれほど悪いものではありませんでした。
                                                  (榮雅)



ひとくち伝言板

◇11月〜12月の行事予定

 11月6日 (日)
   午前9時より  写経の会

 11月17日 (木)
   午後1時より  大護摩供 並びに境内石仏総供養
             ※護摩札をご希望の方は前もってお申し込みを
              お願いいたします。1体3,000円です。

 12月4日 (日)
   午前9時より  写経の会
             ※少し早めの年越しそばを皆でいただきます。

 12月17日(土)
   午後1時より  納めの観音法要

◇11月17日の法要は、本堂で護摩を修した後、境内の観音様の総供養をいたします。

 私たちは大変多くのものに支えられて生きておりますが、普段会える人ならまだしも、草や木やお日様や空気や、会った事のない人への感謝、縁への感謝、ご先祖様への感謝となると、どうやって伝えればいいのか悩んでしまいます。
 そこで、観音様に全部お任せし、その感謝を届けてもらう、そんなお気持ちで供養をするのもいいかも知れませんね。