ひとくち伝言 平成12年2 月(107号)





 あるご法事のお経の後で、こんな話になりました。
 「えー、お線香に火をつける時に、知っておくとちょっと便利なことがあります。まず、お灯明をつけて、その火でお線香つけるとしますね。灯明の火のどこへ線香の先をかざしたら一番いいかということですが、見えている炎のすぐ上の、何も見えないところ、そこが一番高い温度で燃えているところですね。だから、そこで火をつけるのが一番早いわけです。ほら、すぐついたでしょう…。ところがですね、中には、火がついたことをよく確認せずに香炉へ立ててしまう方がままありまして、焦げたお線香が燃えずに残っていたりすることがあるんです。これはお経中、とても気になりますね。線香に火がつく僅かの間を待てるか待てないか、これは心の問題として、大きいと思うんです。ですからどうか落ちついて、ついたかどうかをしっかりと見届けてから、お線香をあげてくださいね。
 ところで、お線香の先についた炎を消しても消えないことがあって…、手で払っても振り回しても一向に消えなくて、しまいに火の子を振り落として大騒ぎする方があります。みんなが見ている時に限って、どういう訳か消えないんですね。顔からも火が出そうになってます。それで、消えない時はどうするか。こうやって線香を縦にスッと、素早く下ろしてください。ほら、すぐ消えますね。さり気なくそういうしぐさが出ると、奥ゆかしいですね。 さて、今も申しましたように、お灯明の見えるところと見えないところの境目というのは、微妙なニュアンスがありますね。その境目のところに実は炎の最も肝心なところ、すなわちエッセンスがある、と…。リンゴの皮と身の間ではないけれども、そういうことって何か意味深いことのような気がします。お灯明は、自分で輝いているように見えます。でも、炎の周りの見えない本当の炎に促されて、蝋が熱せられ、気体になって、細かい炭素の粒子が輝かされている、あるいは『輝くことができている』、それが実際のあり様なんですね。人もそうなんでして、『輝け』と言われたって輝けない、輝いていると見える時には、『輝やけている』ということなんですね。…」
 『すべての見えるものは、見えないものに接している。すべての知られているものは、知られないものに接している』。そういう言葉がありましてね、それを初めて聞いた時に、「あ、確かにそうだ!」と思いました。「こころ」だの「いのち」だのという微妙なものを思う時には、この考え方はとても大切なものになるのではないかと、私は今、思っています。


百観音明治寺 住職 草野榮應







   ひとくち伝言板   


平成12年(仏紀2565年)2月の行事ご案内

2月 3日(木) 午後2時より  百観音節分星祭・追儺(豆撒き)

2月 6日(日) 午前9時より  写経の会

2月17日(木) 午後1時より  百観音月例法要

2月9,23日(水) 午後6時半より 坐りの時を味わう、坐禅の会




 2月3日、節分の準備の真っ最中です。
 星祭のおふだのお申込み、豆撒きのお申込み、撒き物のご奉納などを続々と頂戴しており、感謝申し上げます。今年も精一杯の気合を込めて、節分の護摩の炎を高々と上げて、みなさまの息災をご祈願いたしたいと存じます。
 三波伸一一座による、鬼の寸劇も、ますます磨きがかかってきました。真摯な祈りと笑い、これが矛盾するとは思いませんが、それによって災いや魔を払うという路線を続けています。どうぞお楽しみになさってください。

 お年賀ご挨拶の文中、イスラム暦について誤りがありました。イスラミックセンタージャパンに問い合わせたところ、今年はイスラムの暦1420年に当たり4月6日から1421年が始まるそうです。お詫びして訂正いたします。
また、仏暦もお釈迦さまが何年に誕生されたかについて異説があり、仏教国のタイでは今年を2543年としています。様々な歳月の数え方がありますね。

 切手代感謝録
 杉浦様、市川様、桑山様、榎戸様、青柳様、藤田様、藤田様、野田様、魚田様、谷原様、百軒様、里吉様ほか。ありがとうございました。

 「ひとくち伝言」に対して真摯に反応を返してくださる方があり、感謝しています。
 「…もし写経をするならば、一字一字の意味を理解し、仏様のお言葉に心にしみて感動し…、仏様と対話をしながらお経を書きたいのです…。生きている間に分かるお経を読んでいなければ、死んでから読んで頂いても分からないと思うのです…」。
 なるほどと思います。とても爽やかなショックを覚えました。
 私も般若心経や観音経を分かる言葉に置き換えてお話したいという気持ちをいつも持っています。でも、お経は底の知れない深い泉のように、立っている時と場所によってその水の色も、水面に映る景色も刻々と変わるのです。水を一口頂いて味わっても、その時の自分の状態によって味や舌ざわりが違います。
 ひとつ確かなことは、たとえば観音経をよむと必ず54回は「観音さま」の名前を呼ぶことになります。観音経の主題は「観音の名を唱えよ」ですから、私たちがお経を理解していようといまいと、ちゃんと仏さんの術中に、つまり「その手」に乗っているのだと思っています。また、国宝の平家納経展に行った時、法華経の一文字一文字が蓮の台の上に載せられて、書かれていました。つまり「一文字書けば一文字分の仏がおわします」という思いで、お経の文字が書かれていたのです。これにも感動しました。観音経一巻をよむと(多分)2079人の仏さまにまみえていることになります。全くいい気なもんですが、勝手にそう思っていると、それだけでうれしいのであります。
 私はお経というものと、そんな風に付き合ってきたように思います。何かお経のふところにぬくぬく護られているような、そんな思い方であります。それが一種の甘えであったとしても、それはあってもよいものだと思います。しかし、ある時には正面から、お経の文字に徹底的に向き合う機会も必要だなあと思うこともある、この頃です。
では、どうぞ、お風邪を召しませんように…





東京都中野区沼袋二ノニ八ノ二〇
百観音明治寺 草野榮應