ひとくち伝言 平成21年1月
波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
平 成 二 十 一 (己丑) 年
西暦二〇〇九年 仏暦二五七四年 元 旦
皆様よくご存じの般若心経の、その結論に当たるところに「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」と書かれています。心経は玄奘三蔵様が漢語に翻訳されたといわれますが、この部分は元の梵語を訳さず漢字の音のみで記されています。カタカナなら梵語の響きを外来語として「ガテーガテー パーラガテー パーラサムガテー ボーディスワッハ」と表すことができますけれども、中国では似た音の字を当てて語源に近い発音にする配慮がなされました。やがて日本に伝来してから日本人がそれを日本語で読んで現在に至っているということになります。ですから、たとえばここで使われている「僧」は僧侶ではなく、「薩婆訶」は薩摩のお婆さんが叱る意味でもありません。あくまでも唐の時代の中国で漢字に音写されたものを、私たちはそのまま日本語読みでお唱えしていることになるからです。
羯諦は「行こう」、波羅は「さあ」、僧は「皆一緒に」と意訳いたします。その目的語は 菩提薩婆訶、すなわち「彼の岸(悟りの境地)」です。この謁は「行こう行こう、さあ行こう、さあみんなで一緒に行こう、あの悟りの境地へ」の意味で、取りも直さずこれは仏様方が私たちに「一緒に成就の世界に行きましょう」と声をかけてくださるとともに、常にそう願うお気持ちを表しておられるのです。その(仏様方の)誓願を私たちはお経としてお唱えすることができる……何とありがたいことでしょう。お唱えする私たちもそのご誓願を大切にし、湧き出ずる力の糧にしたいと思います。
さて、仏教語の「観念」は観じ念ずることですが、例えば仏様が私の心の中に居てくださることを念ずると本当にそう想うことができ、お姿を目の当たりにするような場合も観念という心の働きが作用いたします。又、これにはあきらめる意味があります。諦めるも仏教語で、元の意は覚る・真理を知ることですが、観念も諦めるも日常語では望みや願いを思い切る時の言葉として使われることが多いようです。しかし、元来の意味を知り、仏様のことば・お声・お姿を観念し、説いておられるお経の本質を諦めることを励みとして精進を重ねていただきたく存じます。
「観音さま」は数多の仏様方の中で最も衆生に近く居てくださる菩薩様です。万人の苦を除く願いを抱き、遍く楽を施すための大きな希みを持っておられる尊い観音さまを私たちは心の支えとし、これからも変わらぬ信仰の道を歩みたいと思います。観は心(の目)でみる意味に解釈いたします。広く大きく豊かな心で世の中を見、毎日を大切にお過ごしくだされば幸いでございます。平成二十一年が安心の一年となることを願い、併せて皆様の益々のご健勝とご精励をお祈り申し上げます。 知明拝
東京都中野区沼袋二丁目二八番二〇号
百 観 音 明 治 寺
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平成二十一年 行事ご案内 毎月十七日の法要はすべて午後一時からです
一月一日(木) 修 正 会(元日護摩供・ご祈祷)
一月十七日(土) 月例法要 初観音大護摩供 ならびに開基榮照法尼祥月忌
二月三日(火) 節分祭 星祭 午後二時より法要 豆撒き
二月十七日(火) 月例法要
三月十七日(火) 月例法要 春彼岸 大施餓鬼会
四月八日(水) 釈迦降誕会=花まつり 花まつりコンサート(予定)
四月十七日(金) 月例法要 ならびに開山密信和上祥月忌
四月二十九日(水・昭和の日) 慈音会法要・多宝塔供養祭
五月十七日(日) 月例法要
六月十七日(水) 月例法要
七月十七日(金) 月例法要 盂蘭盆 大施餓鬼会
七月二十六日(日) 百観音献灯会 夕方六時より
八月十七日(月) 月例法要
九月十七日(木) 月例法要 秋彼岸 大施餓鬼会
十月十七日(土) 月例法要
十一月十七日(火) 月例法要 大祭・大護摩供 ならびに境内石仏総供養
十二月十七日(木) 月例法要(納めの百観音法要)
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毎月第一日曜日午前九時より 写経の会 小筆をご持参ください
但し 一月は十一日(第二日曜日)、二月は八日(同)に変更いたします