この寺の関基は榮照法尼という尼様でした。直接のきっかけは、明治天皇が崩御されたこと、つまり明治という大いなる時代を見送ったことであります。
榮照尼は文久三年(1863年)−幕末の動乱の時代に、埼玉県熊谷市郊外の玉井村に生まれました。文久三年といえば、明治維新の5年前になります。幼い目には、生家の前の街道を進軍する薩長勢はどのように映った事でしょうか。
父の清水三代吉は薩長に下るを潔しとせず、玉井七人衆として蜂起し、官軍に立ち向かいました。三代吉はたちまちに捕えられ生家は没落の憂き目にあいます。
榮照尼は、明治維新という動乱の渦に巻き込まれ、波乱の生涯を送ります。建築技師の妻として三男四女を育てながら、なおも物心両面にわたる苦難は続きました。
しかし榮照尼は自らに課せられた苦難をバネとし、祖先より培われた観音信仰を支えとして、四国剣山での苦行の末にやがて一気に高い宗教的境地に至り、御法という類まれなる法力を授かったと言われています。
その後、当代の傑僧と呼ばれた雲照律師の下で出家し、名を幼名エイから榮照と改め、律師の高弟松田密信和上を後見に仰ぎました。
それからは、ひたすら人々の心身の苦しみを救うことに東奔西走し、多くの信徒の方々から慕われ、観音慈悲の行を自ら実践しました。
明治四十年には故郷の玉井村の菩提寺境内に「紀念碑」という球形の石碑を建立し、先に述べた七人衆の名を刻みました。それと同じものがこの沼袋の地にも建立され、そこには大日如来の種子であるバンという梵字と、
「みかげより 咲きぬる花は うつくしく
また実をむすぶ のちの種なり」
という言葉が刻み込んであります。輝かしい明治という時代のために捨て石となった人々への、祈りの象徴としてまつられているのです。
明治四十五年、天皇のご崩御に際して、榮照尼は観音石像の建立を志し、深い感謝と哀悼の祈りを捧げるために、大正元年の十二月十七日、最初の開眼供養を行いました。
その後も、初代信徒総代の牧原仁兵衛氏、山田初治氏を初め、多くの賛同者の寄進を受けて次々に観音石像が立ち並び、大正六年には本堂が完成しました。以来、祈願の寺・百観音として大勢の方々に参詣され、尊ばれて今日にいたっております。
なお、当山の開山は松田密信大和上、開基が草野榮照法尼となります。
榮照法尼の残された言葉の一節を次に掲げました。
「人はたゞ その身の死することのみを 厭ひて 心の死を知らず あはれむべきなり」
榮照尼の没後、その実子である昌悦尼が坊守りを務めますが、やはり昌悦尼も住職にはならず、雲照寺第七世でもあった元真言宗東寺派管長、草野榮龍大和上が、明治寺第二世も務めました。
その後、第三世草野榮應の尽力によって戦災で消失した本堂が再建されました。雲照寺第八世でもある草野知明が明治寺第四世を務め、現在は草野榮雅が第五世を努めております。
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